プロサッカー選手の父の下、生まれた瞬間からサッカー漬けの人生

学生時代は何をやってましたか?

一言で表すなら、「ケガと挫折に何度も向き合いながら最後まで諦めなかった学生時代」でした。

私は3歳から22歳まで、人生のほとんどをサッカーに捧げてきました。父が元プロサッカー選手ということもあり、物心つく前からボールを蹴っていたように思います。
正直、楽しいよりも「上手くなりたい」が先行していた幼少期でした。

中学時代はクラブチームに所属し、ポジションはトップ下やフォワード。試合にはレギュラーで出場しており、週5回の練習に加えて、オフの日は父と練習したり、社会人のフットサルに参加したり、とにかく技術を磨くことに没頭していました。
レギュラーのプレッシャーもあり、楽しいという感情よりは、負けたくないという気持ちで動いていた気がします。結果は県ベスト16。当時の私はまだ“個人”の活躍ばかりに意識が向いていたかもしれません。

高校進学では、他県の強豪校に寮生活で進むことにしました。部員数は300人近く。1年生時には「東海ルーキーリーグ」で出場し、ベスト4に食い込む活躍ができました。
ただ、その後はケガとの戦いでした。首の骨にヒビ、骨盤の剥離骨折…長期の入院とリハビリで、トップチームから最下位グループまで落ち、心も体もボロボロに。正直、モチベーションが上がらず、腐っていた時期もあります。
そんな中でも、2年の終盤から少しずつ自分を取り戻しました。
自分より上手いのにプロになれなかった先輩たちを見て「プロの道は厳しい」と自覚した反面、「せめて高校選手権には出たい」という想いが芽生えました。
金銭的にも時間的にもサポートしてくれていた両親の存在、監督の期待。そういった“周りの支え”を再認識した時に、自分の中で火がつきました。
3年生になってからは死に物狂いで練習しました。一時は上のグループに上がれたものの、またしてもケガで大事な昇格試合を棒に振ってしまいました。それでも今度は腐らなかった。「恩返しをしたい」「このチームのために何かしたい」その一心でサポートに徹しました。
結果、選手権は全国ベスト16。応援席から見たあの光景は一生忘れられません。喜びと悔しさ、感謝と誓いが入り混じる時間でした。

大学では地元の強豪校に進学。理由はサッカーだけでなく、教員免許が取れるカリキュラムがあったからです。
将来は指導者になりたい。そんな想いもあり、文武両道を意識して大学生活をスタートしました。1年の秋にはトップチームでレギュラーを獲得。高校時代の悔しさを晴らすようにグラウンドを駆け回っていました。
2年では「北関東1部リーグ」での試合にも参加。しかし、結果は6連敗。関東昇格の夢は遠ざかりました。
そして、またしても試練が訪れます。3年時に第五中足骨を骨折し、手術・入院。ここでもまた大事なシーズンを丸ごと棒に振ってしまいました。
それでも負けたくない気持ちは変わりませんでした。
4年で復帰したとき、監督が変わり、ポジション争いは再びゼロからのスタート。何とかギリギリでトップチーム合宿に参加できるようにはなりましたが、教育実習との両立を無理してオーバーワーク。案の定、肉離れを繰り返してしまいました。
結果として、大学でもレギュラー定着は叶わず、最終的にはサブチームのキャプテンで引退となりました。
高校・大学と、どちらも「やっと掴みかけた」と思った時にケガをして、ピッチに立てない。そんなもどかしさと悔しさの連続だった学生時代だったと思います。

でも、それでもサッカーから離れなかったのは、“最後まで全力でやり切りたかったから”です。
逃げずに、腐らずに、立ち止まっても、また歩き出せる人間でいたかった
その想いだけは、今もずっと変わらず持ち続けています。
あのときの悔しさも感謝も、ぜんぶ背負って社会人として働く今に繋げていきたいと思っています。
そんな私の学生時代は、「最後まで走り切った、不完全燃焼だけど後悔はない」学生時代でした。

就職活動について教えてください。

元々、大学に入学した当初は“教師”や“指導者”を目指していました。サッカー一筋で歩んできた私にとって、人に何かを教えることや育てることに魅力を感じていたからです。ただ、教育実習に行ったことでその理想は一気に崩れ去りました。
学校の先生という職業は、想像以上に業務量が多く、そのわりに給与水準や評価制度の整備は追いついておらず、「こんなに働いて報われないのか」と現実を突きつけられました。私はそこで、“教師を目指す”ことに終止符を打ちました。
そして、3年の10月から就活を本格的にスタートさせました。約200社の説明会に参加し、実際に選考に進んだのは30社ほど。かなり幅広く業界を見ましたが、軸が固まるのには少し時間がかかりました。

私の就活の軸は大きく3つです。
1つ目は「裁量権を持って働ける企業であること」。
2つ目は「親に恩返しがしたいからこそ、“やったらやった分だけ”収入が返ってくるインセンティブ制度があること」。
3つ目は「圧倒的な成長環境があること」。
正直、“その他大勢の新社会人”にはなりたくなかった。突き抜けたかったし、“この人に任せたい”と思われるような実力のある社会人になりたかったんです。

最初は不動産業界を中心に見ていましたが、リードタイムが長いことや、売り切りの営業が多いという点で「自分のやりたい営業と違う」と感じるようになり、比較的高単価かつ回転数もあり、何より“人と深く関われる”人材業界に興味が移っていきました。
人材業界を見始めてすぐに出会ったのがTSACEでした。説明会で話を聞いたとき、「業界1位まで上り詰めた実績のある社長が創った会社」「3年でどこに行っても通用する営業マンに育てる」「圧倒的な評価制度と実力主義」「給与水準の高さ」など、私が大切にしていたすべての軸にドンピシャで当てはまっていて、自然と「ここで働いてみたい」と思うようになっていきました。
ただ、他にも魅力的な企業が2社あり、最終的に3社で悩んでいました。そんな中、社員面談で驚く出会いがありました。TSACEにすでに入社していた社員の方が、実は私の大学時代の仲の良い先輩だったんです。思わず、「ぶっちゃけどうですか?」と聞いてしまったのですが、先輩は隠すことなく、めちゃくちゃ熱量を持って教えてくれました。
「社長との距離が近い。社員一人ひとりのレベルが本当に高い。営業会社だから大変だけど、一つ一つが確実に血肉になってる。先輩がしっかりフォローしてくれるし、同期もいい人ばっかり。楽しいし、成長できてる実感がすごいあるよ」と。
その話を聞いて、私の中でTSACEが完全に第一志望になりました。

2次面接では、これまでで一番“覚悟”を問われるような厳しい指摘もいただきました。甘い部分や論理の穴も的確に指摘され、「この会社でやっていくにはそれなりの覚悟と努力が必要なんだ」と背筋が伸びたのを覚えています。
最終面接では社長と初めてお話ししました。緊張してガチガチだったんですが、終始フランクに接していただき、先輩の話やサッカーの話なども交えながら、楽しく終えることができました。人の上に立つ人ほど、誰よりも相手の目線に立てるんだと実感した時間でした。

最終的に6社から内定をいただきましたが、迷いはありませんでした。私にとってTSACEは“ぶっちぎり”の第一志望であり、「ここでなら本気で変われる」「ここで働きたい」と心から思えた会社です。

インターンと入社式はどうでしたか?

入社してからは、まず社会人としての基本から丁寧に研修していただきました。名刺交換やビジネスマナーなどの基礎から、実践的な営業トレーニングまで、社会人としての土台をしっかり固めていただいた感覚があります。
営業の現場に出てからは、すでに何人かの求職者様の転職サポートに携わらせていただいています。日々、自分の発言ひとつで誰かの人生が動くことに責任とやりがいを感じつつ、まだまだ知識不足や信頼関係の構築力の甘さに課題も痛感しています。

でも、だからこそ毎日がめちゃくちゃ勉強になっています。先輩方の会話やアドバイス、報連相ひとつを取っても情報量が多く、学びが尽きません。大宮のメンバーは本当に全員が「もっと良くしたい」「もっと成長したい」という向上心に溢れていて、オンオフの切り替えもきっちり。業務中は集中してピリッと緊張感がある分、終業後は先輩方や同期と飲みに行ってリラックスした時間を過ごせたりと、バランスもとても良いです。
特に感じるのは、皆さんの“情報アンテナの高さ”と“指摘の質”。くだらないミスや改善のない同じミスに対してはしっかりとフィードバックをいただきます。それが決して感情的なものではなく、「あなたが成長するために言っている」と伝わってくるからこそ、素直に受け止められるし、「次は必ず修正しよう」と心から思えます。

逆に、ここで「うるさいな」とか「めんどくさいな」と思ってしまう人には、正直TSACEは合っていないかもしれません。それくらい一人ひとりが自分の成長に貪欲で、相手の成長にも本気で向き合っている環境です。

そんな中で、今期の目標は「5番以内に必ず入ること」。正直、簡単なことではありません。でも、今この環境にいられるからこそ、挑戦する意味があると思っています。目の前の仕事に全力で向き合い、自分に足りないものから逃げずに改善していく。そして、1年後にはその努力を“成果”というかたちで刈り取れるように、この1年、全力で駆け抜けます。