学生時代は何をやってましたか?
「これがやりたかった!」って自信を持って言えるものが、中学時代の私には特になかったと思います。気がついたら卓球部に入っていて、たぶん入部届を書く瞬間は意識が飛んでたんじゃないかなっていうくらい、何となくの選択でした(笑)。
でも、顧問の先生がとにかく熱い人で。厳しさの中にちゃんと“面倒見の良さ”があって、まっすぐに指導してくれる人でした。その先生に引っ張られて、「せっかくやるならちゃんとやろうかな」と少しずつ前向きに思えるようになりました。
練習は正直きつかったです。汗で体育館の床が滑りすぎて、思ってた以上に足腰やられました(笑)。
でもその分、自分なりに一生懸命頑張って、市の大会ではベスト16に残るところまでいけたときは、やっぱり嬉しかったですね。目立った成績を残せたわけではないけど、“頑張ったからこそ見えた景色”というものが確かにありました。
高校ではバレー部に入りました。ポジションはレフトスパイカー。アニメ『ハイキュー!!』の田中龍之介と同じポジションということで、少しテンションが上がったのを覚えてます(笑)。
元々負けず嫌いな性格なので、どの部員よりも早く来て練習して、終わってからも一人で自主練してました。とにかく「やるなら本気でやりたい」という気持ちが強くて、ひたすらボールを追いかけていた気がします。
うちのバレー部は、いわゆる“根性系”の部活で、毎日の練習がめちゃくちゃ厳しかったです。でも、その厳しさの中に「確かに成長してるな」と感じられる瞬間があって、それが嬉しくて続けられていました。結果としては県大会出場をあと一歩のところで逃してしまって、チーム全体で泣き崩れた日もありました。でも、「最後まで本気でやりきった」という感覚が強かったからこそ、悔しさと同時に清々しさもありました。
大学に入ってからは、最初はバレーサークルに所属していました。けれど途中から「やっぱり自分には“ゆるい”より“ガチ”が合ってるな」と感じるようになって、2年生からはバレー部に入り直しました。練習は自主性が重んじられるスタイルで、全員が“やらされる”のではなく“やるために来ている”という空気感が心地よかったです。人数も多くはなく、まさに一人ひとりがチームの軸になるような感覚でした。
大学のバレー部は、全国大会を目指すような強豪ではありませんでした。どちらかというと、最下位リーグからの昇格戦で毎回苦戦するような、いわば“チャレンジャー側”のチーム。でも、自分たちで考えて、練習して、試合に出て、勝ち負けに一喜一憂している時間が、とにかく楽しかったです。「今日も全力でやったな」と思える日々にすごく充実感を感じていました。
そして、大学時代に自分が一番熱を注いだのが、バイトです。バイトに「命を捧げていた」と言っても過言ではないくらい、本気で取り組んでいました。(笑)
特に印象に残っているのが、焼肉屋のオープニングスタッフとして働いたときのこと。店の立ち上げ時期で、現場はバタバタ。指示も曖昧、ルールも定まっていなくて、正直“ぐちゃぐちゃ”でした。
そんな中で、”名前だけ店長”みたいなポジションを任されるようになり、SNSを活用した集客や、周辺の繁華街に直接足を運んで宣伝活動をしたりと、営業っぽいことも経験させてもらいました。夜のお店の方々とも仲良くなって、お店の雰囲気を伝えながら「良かったら一度来てください」とお願いしたり、町のイベントにも顔を出してカラオケコンテストに出場したり(笑)、とにかくなんでもやりました。
ただ料理を運ぶ“スタッフ”というより、「このお店を盛り上げるために、自分に何ができるか」を考えて動いていたと思います。1度来てくれたお客様を常連さんにするために、会話の内容を覚えておいたり、おすすめメニューを個別に考えたり、自分なりの工夫を重ねていきました。
思い返せば、私はどちらかというと“直感タイプ”の人間で、目の前のことに夢中になって全力で取り組んでいたら、結果的に成長していたということが多いです。でもその背景には、いつも素晴らしい“上司”や“顧問の先生”の存在があって。中学の卓球部の先生、高校のバレー部の顧問、そして焼肉屋の店長。それぞれのタイミングで、私をちゃんと見てくれて、引っ張ってくれた大人たちがいたからこそ、ここまで頑張ってこられたと心から思います。
努力しても結果が出ないことも、もちろんたくさんありました。それでも、「やめる」という選択をしなかった自分に、少しだけ誇りを持てるようになったのは、やっぱり学生時代に“人と本気で向き合ってきた”時間があるからかもしれません。特別な才能があったわけじゃない。でも、目の前の人や仲間、環境に対して“誠実に頑張る”ことは、大事にしてきたつもりです。
だからこそ、これからも「人と向き合うこと」に、まっすぐでいたい。それが、私の学生時代の原点です。