学生時代は何をやってましたか?
私は中学時代、陸上に力を入れていました。練習はほぼ毎日、授業以外の時間は朝から晩まで練習に明け暮れ、部活後も自己研鑽に励んでいました。 小学生の頃から考えるより先に行動するタイプでしたが、中学の部活を通じてその性格がより定着しました。
100m競技で全国1位を目指し、誰よりも努力したと自分で納得できる1日を過ごさないと気が済まない性格だったため、夜遅くまで練習し、誰よりも靴の消費量が多かったことを覚えています(笑)。 そんな努力が実を結び、中学最後の大会で兵庫県1位となり、全国大会への切符を手に入れました。全国大会では結果を残せず悔しい思いをしましたが、高校では必ず全国1位になると決意し、陸上部に入りました。
高校でも中学時代と同様に、誰よりも練習量をこなすことを掲げて取り組んでいましたが、スランプに陥り、中学時代の成績すら超えられなくなってしまいました。ここで初めて「考えて取り組むこと」と「誰よりも練習量をこなすこと」との両立を図りました。今までやってきたことを振り返り、自分にできること・できないことを整理し、できることは従来通り取り組み、できないことはできるようになるまで焦らずコツコツと努力しました。その結果、高校2年の後半にはスランプを脱却し、全国ランキング30位以内に入ることができました。
しかし、これからというときにコロナが流行し、大会がすべて中止に。さらに、予定されていた大学の推薦も消えてしまいました。高校3年生では、部活に奮闘するよりも、勉学に力を入れざるを得ませんでした。勉強はなかなか頭に入らず、必死に机にかじりついていました(笑)。
そんな時、陸上の監督から「会わせたい人がいる」と言われ、日本一アメフトの強い大学の選手リクルーターを紹介されました。
話を聞くと、全国1位を目指せる環境が整っており、今まで培ってきたことも活かせるとのことでした。 最初は少し迷いましたが、個人競技の陸上で全国1位になることの難しさを痛感していたこと、全国1位の実績を持つチームでレベルの高い選手と練習できること、そして初めてのチーム競技への興奮を感じ、最終的にアメフト日本一の大学へスポーツ推薦で入学を決めました。
大学ではアメフト未経験ながら、屈強な選手たちに囲まれ、無我夢中で練習に明け暮れました。丸太を担いで山を登る練習など、本当に令和の時代かと疑うようなトレーニングもありました。大学1年から3年まではスタメンにはなれなかったものの、ここぞという場面でのタッチダウン役としてチームから求められる役割を全うしていました。そして、大学3年次の大会では、チームが全国1位を6年連続で達成しました。
上級生が引退し、私の代がメインとなったとき、私はチームのオフェンスリーダーに立候補しました。しかし、大学4年次のこれからという時に、3回目の脳震盪を起こしてしまいました。アメフト部では、3回脳震盪を起こした選手は回復に時間がかかりやすく、症状が長引く可能性が高いこと、さらに後遺症が残るリスクがあることから、プレーヤーとしての活動が禁じられるルールがありました。
陸上で1位を取れず、覚悟を決めてアメフトの世界に入り、厳しく辛い練習に耐えながら全国1位のチームの背中を追い続け、自分の世代で活躍できると信じていた矢先に、選手生命が絶たれました。 挫折というより絶望に近い感情でした。あれだけの努力が、最後の最後にやり切ることも挑戦することも叶わず終わってしまったのです。
最初は何も考えられず、精神的にも辛い日々でしたが、不思議と「部活を辞めよう」とは一度も思いませんでした。それは、私自身が全国大会への切符を失っただけで、チームにはまだ可能性があったからです。動けない間も絶望はしましたが、悲観はせず、回復後に何ができるかをずっと考えていました。
この気持ちを支えてくれたのは、親の存在が大きかったです。これまで自分の選択を応援し、助けてくれた家族に対して、選手生命を絶たれたからといって腐って辞めるような姿は絶対に見せたくありませんでした。どんな形であれ、やり切った姿を見せて安心させたいという想いもありました。
脳震盪が回復し、最後の大会までできる限りの手伝いや後輩の指導に努めました。しかし、迎えた最後の大会では、私たちのアメフトチームは7連覇を達成することができず、先輩方が繋いできたバトンをつなぐことができませんでした。
試合には出場できませんでしたが、自分事のように悔しく、それと同時に、最後まで勇敢に戦ったチームメイトへのリスペクトの気持ちを胸に、引退を迎えました。